「あるがままを認める」って、それってわがまま?
「あるがままの自分でいいんだ」と思えること。それが「自己受容」だと私は思っています。
でも、頑張ることが当たり前になっている人ほど、「それって単なるわがままになるんじゃないの?」と感じてしまうのではないでしょうか。今回はそんなお話をしたいと思います。
私たちはこれまで、頑張って成果や評価を出し、居場所を得てきました。そしてその評価や成果の証明になるのが、お金や地位といった報酬です。
生きていくにはお金が必要なので、毎月定額で給与を支給してくれる会社という組織に頼るのは、金銭面(その他、社会保険や年金も含め会社員は強い!)でも当たり前と言えば当たり前です。
(FIRE=経済的自立はそれを当たり前としない考え方だけど、一旦置いておいて。)
でも現代は、お金だけでなく「精神的にも会社に寄りかかっている、そしてそれを自覚していない人が多い」と、心療内科の先生に言われたことをふと思い出しました。なんと説明すればよいのか、感覚的には何となくわかるのです。
「会社員」を脱いだ、本当の私
会社員という肩書きを外して、「ただ1人の私という人間」と考えた時、「本当の私」はどんな人間でしょうか?
- 何が好き?
- 何をしたら楽しい?
- あるがままの私ってどんなだろう?
これが自分でわかっていればいいんだと思います。しっかり自分の足で立っている状態です。しっかり自分を紐解いて、その答えが「仕事」に関係する人は、仕事が生きがいで、きっと定年退職しても何か仕事のようなことを続けるのだと思います。
対して私は、ただ働いていました。会社内で周囲に並ぶため、評価されるため、お金を稼ぐため。世間的に「働くことは当たり前」だから。これまで勉強してきたことだから。
「本当はやりたくない」に蓋をしてきた理由
「〇〇しなきゃいけないから」の裏側には、実は「本当は〇〇したくない」という気持ちがあるのではと思います。
「本当はこうしたい」「本当はやりたくない」。
そう思うこと自体はもちろん自由。そして自分こそがその気持ちをわかってあげていないといけないはずです。なのに、
- 「そんな甘えたこと言ってる場合?」
- 「現実は〇〇しないといけないんだから」
そうやって気づくと、本当の自分に蓋をしてしまう。
「私って本当はこう思っているんだね」と受け止めてあげられない。そんな不満や本音を抱えたままでは目の前のことに頑張って打ち込めないから、いっそのこと本音を「なかったこと」にして、「目の前の頑張らなければいけないことを頑張る自分」だけを残す。しかもこれって無意識にやってて、自分で気づかないんですよ。
私はやらないといけないことを頑張っているだけ。正しいこと。それの何が悪いの?って。
私は、ずっとそんな風にして生きてきました。でも、限界がきて頑張れなくなってしまったのです。
立ち止まることは甘えじゃない。ペースダウンは、本来の正常な状態に戻っただけなのです。
幼少期から続いていた「甘えられない」癖
思い返せば、私は昔から「休みたい」と言えない子供でした。
「高熱がないとだめだよね」「甘えてるだけ」「学校でうまくやれてないって思われるかも」
欲求とか、ネガティブなことは、私はこう思ってるんだって、親にも言えませんでした。甘えられないというより、気持ちを隠すクセ、ですかね。
でも休職してしばらく経ち、旅行先で会社のことをふと考えなくなっている自分に気づきました。「あぁ、少しずつ解放されてきたのかな?」と思えた瞬間でした。
自分に優しくなる練習を、少しずつ
あるがままでいることは、頑張り屋さんにとって本当に難しいことだと思います。
頑張って成果を出していない自分を外に出すなんて、不安だし考えられませんよね。
でも、もっと自分に優しくなっていい。そのままの私にだって価値があることを忘れないでいたい。
小さな練習を、一つひとつ積み重ねていきましょう。
※高垣忠一郎 著『つい「がんばりすぎてしまう」あなたへ 自分のこころを見つめなおす』を読んでいたときに、ふと自分の体験と重なり、派生して考えたことを残してみました。本のエッセンスとはまた少し異なる、私個人の思考メモです。
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